ブライアン・ウィルソン死去 ビートルズとの関係

ビーチ・ボーイズの創設者であり、ポップ・ミュージック史を塗り替えた作曲家/プロデューサー、ブライアン・ウィルソンが82歳で亡くなりました。家族は2025年6月11日(米国時間)付で公式サイトとSNSを通じて訃報を公表し、「私たちは世界と悲しみを分かち合っています。Love & Mercy を込めて」と述べています。

ポール・マッカートニーとブライアン・ウィルソン

ビートルズがブライアン・ウィルソンに与えた影響

1964年のビートルズのアメリカ上陸は、音楽界における転換点となり、新たな競争の構図を生み出しました 。ビーチ・ボーイズは、この現象に対するアメリカからの回答として位置づけられることもありました。

ビーチ・ボーイズのマイク・ラヴは当時の状況を振り返り、「彼らの音楽は大好きだったし、エキサイティングだった。でも、僕らも上手くやっていたよ!」と語っています 。

ブライアン・ウィルソンは、ビートルズを取り巻く熱狂ぶりに「嫉妬した」と初期に認めつつも、彼らの楽曲の質の高さを認識していました。ウィルソンはビートルズがアメリカで成功を収めた当時、「ビーチ・ボーイズのサウンドに幻滅し始めていた」とされています。ビートルズの「パワー」は彼を刺激し、より多くのヒット曲を生み出す原動力となり、「アイ・ゲット・アラウンド」の成功に繋がりました 。

ブライアン・ウィルソンは、ビートルズが1965年に発表したアルバム『ラバー・ソウル』に衝撃を受けました。彼はこのアルバムを「おそらく史上最高のレコード」と評しています 。

「『ラバー・ソウル』を聴いて、どうしたら収録曲すべてが同じ場所から生まれたように聴こえるアルバムを作れるんだ、と思った。僕には理解できなかった。ぶっ飛んだよ。そして言ったんだ、畜生、僕もあれをやらなきゃ。ボーイズと一緒に試さなきゃってね」「歌詞やメロディだけでなく、プロダクションやハーモニー…まるでアート・ミュージックのようだった」。

ラバー・ソウル - ザ・ビートルズ

ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』

1966年5月、ビーチ・ボーイズのメンバーであるブルース・ジョンストンは、『ペット・サウンズ』のプロモーションのためロンドンを訪れました。この訪問は、アルバムがアメリカでリリースされた直後、イギリスでのリリース(6月27日予定)に先駆けて行われました。

ジョンストンは、ザ・フーのキース・ムーンの仲介でジョン・レノンとポール・マッカートニーに会い、ホテルのスイートルームで彼らに『ペット・サウンズ』のテスト盤を聴かせました 。

ジョンストンの回想によれば、「一晩中、約4時間、何度も何度もそれをかけた…彼らは言葉を失っていた」とのことです 。同席していたプロデューサーのキム・フォウリーは、レノンとマッカートニーが熱心に耳を傾け、その後、持ち込まれたピアノに向かい、小声で楽曲について話し合っていたと述べています 。

ポール・マッカートニーは『ペット・サウンズ』に「深く感銘を受け」、「ぶっ飛ばされた (blew me out of the water)」と述べています。彼はこのアルバムを「史上最高のアルバム (the album of all time)」だと考えていました。

「このアルバムが大好きでね。子供たち一人ひとりに人生の教育のためにコピーを買ってあげたんだ。このアルバムを聴くまで音楽的に教養があるとは言えないと思うからね」「『ペット・サウンズ』を聴いて泣いたことはよくある。僕にとってそういうアルバムなんだ」と語っています。

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マッカートニーは、『ペット・サウンズ』が『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に与えた主要な影響を明確に認めています。「もしレコードにバンド内のディレクターがいるとしたら、僕は『サージェント・ペパーズ』をある種監督したんだけど、その影響は基本的に『ペット・サウンズ』だった」。

ビートルズのプロデューサーであるジョージ・マーティンもこれを裏付けています。「『ペット・サウンズ』がなければ、『サージェント・ペパーズ』は生まれなかっただろう…『ペパー』は『ペット・サウンズ』に匹敵しようとする試みだった」。

ビーチ・ボーイズのアル・ジャーディンは、『ペット・サウンズ』を聴いた後、ビートルズが「ワオ、これにどう対抗するんだ?」と考えていたと述べており、その影響が『サージェント・ペパーズ』構想以前から感じられ、おそらく『リボルバー』にも影響を与えていたことを示唆しています。

ポール・マッカートニーの発言とエピソード

「僕が本当に注目したのは、『ペット・サウンズ』のベースラインだった…ブライアンは、使うべきでないような音を使っていた…そしてベースラインにメロディを入れていた」「オーケストラ、アレンジ、楽器編成が大好きだ…ハーモニカ、ハープシコード、ティンパニ、スネアドラムの使い方…ハーモニーの書法は素晴らしい」

「ゴッド・オンリー・ノウズ」:マッカートニーは繰り返し、これを自身のお気に入りの曲の一つ、あるいは最高の曲と呼んでいます 。「あのメロディには参るよ…あれが一番好きだと思う」。

「素敵じゃないか (Wouldn't It Be Nice)」:「あのメロディの部分が好きなんだ」。

「ユー・スティル・ビリーヴ・イン・ミー」:メロディが彼を「打ちのめし」、多色的なハーモニーが「背筋をぞくぞくさせる」と語っています 。

1967年4月10日、ポール・マッカートニーがビーチ・ボーイズの「ヴェガ=テーブルズ」(『スマイル』プロジェクトの一部)のレコーディング・セッションを訪れた際の記録があります。

参加者の記憶は様々ですが、多くはマッカートニーがセロリやニンジンをかじって参加したことに同意しています。ブライアン・ウィルソンは「彼がニンジンをかじり始めた」と回想し 、アル・ジャーディンは「ポール・マッカートニーが入ってきて、コンソールのブライアンに加わった」と述べています。マリリン・ウィルソンは「ポールも彼に倣ってセロリを手に取った」と記憶しています。

彼はこの訪問中にブライアンとその妻のために「シーズ・リーヴィング・ホーム」も演奏しました。

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ポール・マッカートニーとブライアン・ウィルソンの共演

マッカートニーとウィルソンは、2002年9月18日の地雷除去チャリティ・ガラ「Adopt-a-Minefield」で「ゴッド・オンリー・ノウズ」を共に演奏しました。

「実際の演奏では大丈夫だった――持ちこたえたんだ――でもサウンドチェックで僕はダメになった…だって、この曲はとても感情的で…そして僕は…『ああ、神様、ブライアンと一緒に歌っているんだ』と考えていた。それで僕は参ってしまった。できなかったんだ」

ブライアン・ウィルソンとビートルズのメンバーとの関係

ジョン・レノンもまた、ビーチ・ボーイズの音楽、特にブライアン・ウィルソンの革新的なアレンジを賞賛していました。マッカートニーがしばしばメロディと感情を強調したのに対し、レノンの賞賛は、アレンジャーおよび音響テクスチャリストとしてのウィルソンの手腕に向けられています。

1965年の「ザ・リトル・ガール・アイ・ワンス・ニュー」について、レノンは「これは最高だ!音量を上げて、もっと上げて…全部ブライアン・ウィルソンだ。彼は声を楽器のように使っている…素晴らしいアレンジだ」と語っています。

レノンは『ペット・サウンズ』も愛していました。ブライアン・ウィルソンは、レノンの『ラバー・ソウル』収録の「ノルウェーの森」や「イン・マイ・ライフ」といった楽曲が『ペット・サウンズ』にインスピレーションを与えたと述べています。

アリス・クーパーは、1974年のグラミー賞授賞式での出来事を語っています。その際、ブライアン・ウィルソンは以前にも会ったことがあるにもかかわらず、繰り返しジョン・レノンに紹介してほしいと頼んできたといいます。

何度も紹介された後、ウィルソンの精神的な問題に気づいていたレノンはクーパーに「彼とは何百回も会っているよ。彼は具合が良くないんだ、知ってるだろ」と語りました。

ジョージ・ハリスンは、ビーチ・ボーイズの独特な貢献を認識していました。「ビーチ・ボーイズはもちろん、それまで誰もやったことがないようなことをやっていたと思う」。

ビートルズとビーチ・ボーイズは、奇しくも同じ1988年にロックンロールの殿堂入りを果たしました。

リンゴ・スターと
     
ショーン・レノンと

ブライアン・ウィルソンの苦悩

1966年後半から1967年初頭にかけて、ブライアン・ウィルソンがビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を聴いた際の深い反応は、彼の創造的軌跡における重要な転換点となりました。ウィルソンの協力者であったマイケル・ヴォスは、ウィルソンがラジオでこの曲を聴き、首を振りながら「彼らはもうやってしまった (They did it already)」と語ったと述べています。別の記述では、彼は「車を停め、泣き崩れて『彼らが先にたどり着いた』と言った」とされ、ビートルズが特定のサイケデリックで革新的なサウンドにおいて自分を打ち負かしたと感じたようです。

ウィルソンは『ペット・サウンズ』に続く作品を作り、ビートルズの急速な進歩と競争するという強烈なプレッシャーを感じていました 。『ペット・サウンズ』に影響を受けた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、逆に「ウィルソンを、当初頓挫した『スマイル』で、おそらく達成不可能な野心へと駆り立てた」とされています 。  

バンド内の対立(マイク・ラヴの『スマイル』への嫌悪感)、ウィルソンの悪化する精神状態、薬物使用(ただしヴァン・ダイク・パークスは『スマイル』頓挫におけるその役割を軽視しています )、そしてプロジェクトの純粋な実験性もまた、主要な要因でした 。

ウィルソンは1967年の『スマイル』の失敗について、「マイクは気に入らなかった。実験的すぎると僕は思った。『ファイア』のテープは怖すぎると感じた…人々は当時の僕の頭の中を理解できないだろうと思った。それが理由だ。ただ、完成させられなかったことで、個人的に打ちのめされたと感じた」と語っています 。彼はまた、「完成させるには少なくともあと1年は必要だと感じていた」とも述べています 。  

その心理的負担は大きく、「それまで誰もやったことのないことをやろうとしていた。傑作にしたかったし、自分を追い込みすぎた」、「コントロールを失っているように感じた」 と回想しています。

ポール・マッカートニーは、ブライアン・ウィルソンが2004年に発表した『スマイル』の完成版(『ブライアン・ウィルソン・プレゼンツ・スマイル』)に感激し、「ブライアンがついに『スマイル』を完成させたと聞いて興奮した。美しいアルバムであり、彼の創造性の証だ。傑作になるだろうといつも思っていた」と述べています 。

スマイル - ビーチ・ボーイズ

Brian had that mysterious sense of musical genius that made his songs so achingly special. The notes he heard in his head and passed to us were simple and brilliant at the same time. I loved him, and was privileged to be around his bright shining light for a little while. How we will continue without Brian Wilson, 'God Only Knows'. 
Thank you, Brian. - Paul
ブライアンには、彼の曲を胸が締めつけられるほど特別なものにした〈神秘的な音楽的才能〉がありました。彼の頭の中で鳴り、私たちに届けられた旋律は、シンプルでありながら輝いていました。私は彼を愛しており、そのまばゆい光のそばにしばし身を置けたことを誇りに思います。ブライアン・ウィルソンなしで私たちがこれからどう歩み続けるのか――“神のみぞ知る”。
ありがとう、ブライアン。 ― ポール

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